祇園祭の前祭に続き、7月21日から49年ぶりに復活した祇園祭後祭の宵山が始まりました。
祇園祭後祭では四条通や烏丸通の交通規制が変わり、宵山期間中の歩行者天国がなくなりました。また、露店の出店もありません。
21日は祝日で天候にも恵まれたので、日中は結構な人出でした。特に大船鉾の辺りはすごかったですよ。あと、当日は夏真っ盛りの天気で、えらく暑かったです・・・(^_^;
祇園祭 49年ぶりの後祭
祇園祭は2014年から内容が大きく変更されました。49年ぶりに前祭・後祭が復活し、宵山と山鉾巡行が2回行われます。33基ある祇園祭の鉾のうち、後祭に出るのは10基で、後祭の宵山は7月21日〜23日、山鉾巡行は7月24日です。
祇園祭後祭では四条通や烏丸通の交通規制が変わり、宵山期間中の歩行者天国がなくなりました。また、露店の出店もありません。
あと、もう一つの大きな話題として、150年ぶりに大船鉾が復活し、祇園祭後祭の山鉾巡行でトリを飾ります。
祇園祭後祭 大船鉾
まず最初は後祭の主役、150年ぶりに復活した新町四条下ルの大船鉾です。
元々は日本書紀にある神功皇后の新羅出船が由来で、「出陣の鉾」である船鉾と、「凱旋の鉾」の大船鉾がペアになっていました。以前は前祭・後祭で別々に巡行していたそうです。
大船鉾は応仁の乱(1467年)以前から存在したと言われる鉾で、1864年に起こった蛤御門の変により多くを焼失し、以後は休み鉾となりました。
蛤御門の変は幕末に起こった長州藩と幕府側との戦いで、戦火により京都市内の住居が約3万戸焼失したと言われています。昔の事とは言え、京都市内で戦乱があったなんて信じられないですねぇ。
大船鉾は現在の四条町にあり、船鉾より少し北側に位置しています。船鉾が2基あった頃は、町内が北四条町と南四条町に分かれ、一年交替で巡行を受け持っていました。
当時の新町通には豪商や武家屋敷が並び、四条町も大層栄えていたそうです。
さて、これがお昼すぎの大船鉾付近の様子です。大船鉾は巡行のトリを飾る祇園祭後祭の主役ですし、150年ぶりに復活という話題性もあって、このような状態になってました。
それにしてもえらい人気だなぁ。後祭宵山初日にもかかわらず、大船鉾のちまきは早々に売り切れたそうです。
大船鉾乗船待ちの列です。えらい行列で大船鉾乗船まで数十分は待たされそうです。でも、大船鉾は凱旋の船ですから、乗ればいいことがあるかもしれません。
大船鉾はまだ新しいので、鉾の構造材や柵柱、提灯台の木からほのかにヒノキの香りがします。これが以後何百年も使われていくのですねぇ。
大船鉾も船鉾と同様に、神功皇后が御祭神としてお祀りされ、お供も副将の住吉明神・舵取り役の鹿島明神・水先案内人の龍神・安曇磯良の三神を船鉾と同様に祀っています。
ちなみに、船鉾の神功皇后はこれから出陣なので鎧姿、大船鉾では戦を終えて凱旋しているので、鎧を脱いで狩衣を纏っています。
また、神功皇后は朝鮮半島から凱旋した後で、無事に皇子を出産しました。この故事にちなみ、神功皇后は安産の神として信仰されるようになりました。船鉾にあった安産のお守りは、大船鉾でも授与されています。
そういえば、大船鉾の周りでは妊婦さんの姿もちらほらと見かけましたよ。
祇園祭後祭 役行者山
姉小路室町の役行者山です。応仁の乱以前から存在している舁山(かきやま)です。
祇園祭の山鉾は鉾、 曳山、 舁山、 傘鉾に分類されますが、舁山とは肩に担いで巡行する山鉾のことです。鉾や曳山には車がついていて、みんなで引っ張っていますね。
役行者山の名称は、修験道の開祖として知られる役小角が一言主神や葛城神と共に、葛城山と大峰山の間に橋をかけたという故事から来ています。
その故事の通り、役行者山には御神体として役行者と一言主神(ひとことぬしのかみ)、葛城神(かつらぎのかみ)の三体が祀られています。
また、修験道の開祖、役行者にちなみ、宵山では本山修験宗総本山聖護院から山伏が来て、役行者山前で護摩焚きが行われます。
宵山初日なので、御神体はまだお休み中でした。巡行当日は役行者と一言主神、葛城神が祀られます。
祇園祭後祭 黒主山
室町三条下ル、黒主山です。謡曲「志賀」にちなみ、大伴黒主が桜の花を眺めている姿が由来です。大伴黒主は近江国滋賀郡に拠点を持つ平安時代の歌人で、その和歌は古今和歌集や拾遺和歌集にも収録されていたという六歌仙の一人です。
造花とはいえ、桜がとても美しいですね。この桜の造花は、粽と同様に戸口に挿すと悪事が入ってこないと言われています。
巡行では、桜の花を仰ぎ眺めている大伴黒主の人形が桜の隣に飾られます。
黒主山の由来 謡曲「志賀」
黒主山の由来となった謡曲「志賀」とはこんなストーリーです。
帝に仕える臣下が桜を訪ねて志賀の山へ行ったときのこと。そこで出会った若者と老人2人の樵が桜の木陰で休んでいます。老人が担いでいた薪に桜の枝を添えていたのを見て訳を尋ねると、身分不相応な振る舞いだが、大伴黒主の歌を偲んで花陰で休んでいたのだと言いました。
そして、その歌の徳を讃えつつ、老人は昔黒主と呼ばれていたが、今は山の神になったと告げて、志賀の宮へ帰って行きました。その夜、花陰に休む臣下の前に黒主の姿が志賀明神となって現れ、花吹雪の中で神楽を舞ったというお話です。
祇園祭後祭 北観音山
新町六角下る、北観音山です。今回の後祭を将棋に例えると、王将はトリを務める大船鉾、飛車角に当たるのが北観音山と南観音山でしょうか。北観音「山」という名称ですが、実際は鉾と変わりません。
北観音山は別名「上り観音山」と呼ばれ、応仁の乱以前から存在していました。当時から隣町の南観音山と1年交代で山を出していたと言われています。
山の上には楊柳観音像と韋駄天立像が祀られ、巡行時には楊柳観音が柳を持って人々を病苦から救ったという観音懺法にちなんで、山の後ろに大きな柳の枝を差しています。
北観音山は鉾ではないので、屋根には真木の代わりに松の木を立てます。ご覧のとおり、その高さは隣の京都逓信病院とそんなに変わりません。その松には尾長鳥がとまっています。
町内に三井や松坂屋などの豪商が住んでいたからか、北観音山の飾物や胴懸はとても豪華です。天水引は金地錦観音唐草模様と雲龍図を隔年に使用し、金地刺繍の下水引は中島来章の下絵による唐人物王侯行列風俗です。見送の日輪鳳凰百子嬉遊図は17世紀中国明代の綴錦です。
胴懸類は17~18世紀の花文インド絨毯を用いていましたが、現在では19世紀のメダリオン中東連華文様ペルシア絨毯を前懸に、胴懸はトルキスタン絨毯,後懸は19世紀の中東連花葉文様ペルシア絨毯に変更されました。
また、慶安4年(1651)の旧観音尊衣装 花菱襷文様繻珍錦は大切に保管されています。破風下の木彫雲鶴や四隅の房掛金具、欄縁の錺金具も精巧なもので、北観音山の華麗さを引き立てています。
祇園祭後祭 南観音山
新町蛸薬師下ル、南観音山です。こちらは「下り観音山」と呼ばれ、楊柳観音と脇侍の善財童子が祀られています。以前は北観音山と隔年で交互に鉾を出していましたが、明治以降はどちらも毎年出るようになりました。
山鉾巡行では長刀鉾と同様のくじ取らずで、前祭・後祭が一緒になってからは南観音山が必ず巡行の殿を務めていましたが、今年はその役目を大船鉾に譲っています。
南観音山は北観音山・岩戸山と同様の曳山ですが、実際は鉾と変わりません。しかし、鉾ではないので、屋根には真木の代わりに松の木を立てます。
その松の木は高さ15Mもある大きなものですが、重機などは使わずに人力で骨組みを横に倒して、土台に松の木を差し込んでからまた元に戻しています。また、下から2段目の枝には鳩がとまっています。
北観音山と同じ町内なので、南観音山の飾物や胴懸も豪華です。
胴懸はペルシャ花文緞通で、前懸はメダリオン中東蓮華紋のペルシャ絨毯です。画像でもわかる通り、とても鮮やかな胴懸です。
天水引は2007年に新調され、塩川文麟の下絵を盛上げ刺繍で描いた「緋羅紗地 四神文様」で、下水引は1995年に新調された「苑色繻子地雲龍図」と、加山又造の下絵による「飛天奏楽図」です。
見送は中国明代の雲中青海波文の綴錦でしたが、1988年に加山又造下絵の「龍王渡海図」に新調されました。
17世紀製の旧前懸は異无須織といわれる華麗なペルシャ絹絨毯で、日本最古と言われる(1684年)花文インド更紗や山花花鳥文様の旧前懸などの逸品も保存されています。
また、南観音山名物の「あばれ観音」は、宵山の深夜に御神体の楊柳観音を神輿の台座に縛り付け、大きく揺らしながら町内を回ります。謂れや起りもよくわかっていないという不思議な行事です。
あばれ観音の動画を撮って記事を書いてます。よかったら見て下さいな。
後祭復活記念手拭がもらえる集印ご利益めぐり
祇園祭後祭では、「後祭十ヶ町集印ご利益めぐり」というスタンプラリーが行われていました。祇園祭後祭の山鉾10基を回って朱印を集めると、後祭復活記念手拭がもらえるそうです。限定3500枚なので、早い者勝ちです。
こんな台紙が配布されていました。拝観できない鉾や山にえらく人が並んでいるので、何事かと思ったらこのイベントだったのですね。場所によっては数十分~小一時間も待たされたそうです。
どの鉾もえらい行列でしたが、宵山初日はとても暑かったので、子どもたちには辛かったでしょうねぇ。なくなり次第終了ですが、後祭復活記念手拭は500円で販売しているので、最初から素直に買うのも手かと・・・
祇園祭後祭 宵山初日の夜
さて、祇園祭後祭初日 夜の宵山です。後祭は露店もなく、宵山初日は連休最後の日だったこともあり、いつもの宵山に比べると夜の人出はかなり減ってました。
それはさておき、提灯が一斉に灯された夜の山鉾はまさしく幽玄の世界で、いつ見ても美しいです。こちらは鈴鹿山です。
新町三条下ル、昼間の八幡山です。
んで、こちらが夜の八幡山です。昼間の姿とはまた違う感じですね。
新町蛸薬師下ル、夜の南観音山です。10時を過ぎると提灯の明かりが消え、山鉾もつかの間の休息に入ります。
提灯の明かりが消えた後も、警備の方が夜を徹して北観音山を見守ります。皆様、お疲れ様でございます・・・
祇園祭前祭宵山初日の様子と、後祭山鉾巡行の様子も書いてます。よかったら見てくださいね。
以下は祇園祭に関する記事一覧です。宵山や山鉾巡行の見どころを紹介しています。